
数学教科書と私
大阪教育大学非常勤講師 私が大阪府立女子師範学校附属小学校(現在の教育大学附属平野小学校)に入学したのは昭和8年で,国語の教科書が「サイタ サイタ」にかわった初年度ですが,算数は黒表紙の「尋常小学算術書」を教わった最後の学年になります。「四則応用問題」を解くのに“何を1とおくか”に苦労したと同時にまるでパズルを解くような興味を覚えた記憶があります。 昭和14年に(旧制)今宮中学に進学し,低学年では代数学と幾何学(書名を忘れましたが別冊・教官も別)を学びました。四則応用問題に苦労しただけに機械的にとける代数学が平易に受け入れられた半面,「仮定・終結・証明」といった形式を厳しく指導いただいた幾何学によって論理が鍛えられました。他方,幾何学の証明では適切な補助線を見つけることが問題解決の成否に大きくかかわっていました。中学2年のとき,家にいても,通学中も,授業中もある問題を考えていて,1週間ほどして解けたときの嬉しかった思い出が強烈で,それから数学が特に好きになりました。高学年では「新中等数学」大阪大学清水辰次郎先生著[修学館]の中卷によって三角法・対数・三角関数・投影図などを学習しました。 昭和19年(旧制)大阪高等学校に入学したのですが,本来3年であった旧制高校の課程が戦時中で2年半,更に2年に短縮され,その上に勤労動員・学徒出陣などがあって,“何時学習出来なくなるか分からないから可能な限りできるときにやる”という思いが教官側にも学生側にも強く,勤労動員されるまえに微積分學・画法幾何等のほぼ本来の課程を教わりました。動員先で終戦をむかえ,学制が3年に戻ったのですが,以上の事情からその後の1年半は曲線の追跡・記号論理学など教科書にない内容を教えていただきました。 |
こうして培われた数学にたいする想いを追求するため,昭和22年大阪大学理学部数学科に進学しました。この年,新制中学が発足したのですが,小学校時代の恩師が(新制の)中学校長になられ,手伝ってくれないかとおっしゃっていただいたので,旧制高校卒業の資格で旧制中学の数学教員の免許状(当時これが新制中学・新制高校の教員免許状に転用出来ました)を取得しました。恩師が急逝されたために所期のお手伝いはできませんでしたが,縁あって昭和24年帝塚山学院に非常勤講師として奉職,中学部1年と高等部2年の数学を担当しました。当時の高校の数学は「解析」と「幾何」に分かれ,教科書は検定(と言っても1種類のみしか刊行されず)のもので私は幾何(1)を使いましたが,旧制中学で学んだものと変わりありませんでした。他方,新制中学の当時の教科書はいわゆる「単元学習」といった生活色の強い内容で,系統的に積み重ねられる数学教科の学習とは相容れないものでしたが,運動場に出て校舎の高さを測定させたり,プラトンの立体をつくらせたり,できるだけ作業を通して空間概念を把握させようとしたことを覚えています。 大学を卒業して1年間は続いて帝塚山学院に勤め,昭和26年に大阪市立大学理工学部(後理学部・工学部に分離)に奉職しました。 新制中学数学の学習指導要領が「系統学習」に改訂されるのにあわせて市大の小松醇郎(後京大)・浅野啓三・高橋陸男(後教育大)先生がたが大阪書籍から教科書を出されることになり,現場の経験から執筆陣に加えていただき,昭和27年からときには合宿もしながら「中学数学」29年度版を執筆しました。爾来46年版まで「中学数学」を執筆,また浅野先生を中心に新制高校の教科書「高校数学」(38−44年度版)も執筆し,この間いろいろなことを教わりました。 昭和39年に大阪大学教養部に転勤しましたが上記の経験を生かし大阪大学教養部のメンバーと一緒に大学の基礎課程の教科書「解析學」を学術図書から昭和41年に出版しました。執筆しながらゲラ刷りをもとに講義したことが懐かしく思い出されます。 |
