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数学教育思潮の流れと教科書

    大阪教育大学附属図書館
     天王寺分館長 松 宮 哲 夫


 教育は社会事象です。数学(算数も含む)教育もその例外ではありません。明治以来,数学教育は社会の変化に伴って随分変わってきました。教科書は各時代の数学教育思潮の反映なのです。


T.洋算・西洋数学翻訳教育期
(1) 学校教育に洋算採用決定
 1872年文部省は小学校には「洋法算術」を指示し教科書に『筆算訓蒙』『洋算早学』等を挙げ,中学校には「算術 代数学 幾何学」を指示しました。日本伝統の和算(珠算も含む)ではなく洋算(筆算)でした。国防問題が緊急課題だったからです。この決定は重要で日本の数学教育を国際化したことになります。しかし洋算を知らない先生が多く寺子屋同様に珠算のみを教えていた人もいるほどです。そこで文部省は1873年,和算の併用を認めねばなりませんでした。
(2) 翻訳教育  教科書は翻訳本か洋書
 文明開化の波に乗って欧米の翻訳翻案の算術書や数学書が数多く出ました。文部省編『小学算術書』1873年はその代表的なもので米国のコールバーンのペスタロッチ流の直観主義の教科書で挿絵が沢山入っています。中学校では神津道太郎訳『筆算摘要』1875年の米国のロビンソンもの,田中矢徳編『算術教科書』1884年のロビンソンに英国のトドハンター加味のものが普及しました。英国留学から帰国の菊池大麓は1877年東大教授になりトドハンターを奨めたのでした。また中学入試が厳しくなると尾関正求『数学三千題』1880年が流行します。仏国留学から帰国した寺尾壽東大教授は「算術ハ一種ノ学ナリ.単ニ術ニ非ズ」の主張を以て『中等教育算術教科書』1888年を出版します。するとそのフランス流の理論算術が流行し,小学校の算術書にまで影響を与えるのでした。

  U.翻訳教育脱皮と我が国数学教育構築期
(3) 教科書の検定制度開始
 教科書は1872年の自由発行・自由採択制度から開申制度,認定制度を経て1886年に学制改革とともに検定制度が始められました。当初はゆるやかでしたが1892年から内容を問題とするようになりました。統制して国民教育の統一を図ろうとしたものでしょう。中学校,師範学校より小学校の方が厳しかったのです。
(4) 尋常中学校数学科教授細目の編纂
 翻訳教育期の数学教育は多様であり流行がありました。ロビンソンからトドハンターへ,1887年からは英国のチャールス・スミスものが加わります。その頃,三千題流算術や理論算術も流行していましたし,その他,欧米の沢山の数学教科書が訳されています。玉石混交でした。
 文部省は検定制度の開始とともに教育課程を整備したいと考え,服部一三普通学務局長は1887年頃,藤澤利喜太郎東大教授に数学課程を一定するように依頼します。その結果,菊池大麓の幾何学教科書(文部省編輯局,1888年),三角法の教科書とともに,藤澤利喜太郎の算術,初等代数学の教科書などが出版されます。
 他方,文部省は当時,各学科の細目がないので,学科程度に不均一を生ずる虞れがあるとして一定の準則を定め中学教育の統一を計りたいと考え,尋常中学校教科細目調査委員会を設置します(1897年9月〜翌年4月)。その結果,文部省高等学務局から1898年6月7日に『尋常中学校教科細目調査報告』を発行しました。これが教授要目の嚆矢です。数学科の委員は生駒萬治(東京高師),藤澤利喜太郎(東大),寺尾壽(同),菊池大麓(同)の四名でした。そして,数学科教授細目の根拠となったのは,菊池,藤澤の教科書だったのです。教科書編纂を依頼して細目ができるまで約10年の歳月がかかっています。
 以上の10年ほどが構築期に当たるでしょう。藤澤は本邦算術の来歴を調べ,諸外国の教科書を参考にし,学校の算術教授の実際を調査して今日的な方法で研究しました。本邦算術条目教授法の四分五裂の有様を救おうとしたのでした。


V.日本の算数・数学教育確立期
(5) 中学校数学教授要目制定
 先に数学科教授細目が一篇の報告書として出されると変化が起こってまいります。数学の教科書はそれに準拠して編纂します。例えば沢田吾一や樺正董の算術がそうです。現場の中学校もその教科書を使います。文部省はこのような情況を見てその細目が高尚すぎるので適当なものに修正する必要を感じました。そして,調査した結果,1902年2月6日に公布したのが中学校教授要目です。
 数学教授要目は教授細目より平易にしていますが,菊池と藤澤の数学教育観で編纂されています。即ち,形式陶冶説に基づく分科主義の数学教育です。函数概念を排除し,幾何学は幾何初歩を排して論理を厳密にし,代数と幾何は別学科としました。また藤澤は「普通ノ算術中ニハ理論ナシ」として理論算術を退けます。教授要目は省令ではなく訓令でした。菊池が文相のとき,訓令にしたのは各校での取扱に自由を余しておいたといっていますが,教科書会社はそれに一斉に準拠していきました。現場の中学校でもそれを要望したので,中学校の数学教育は統制されていったのです。
(6) 教科書の国定制度と黒表紙教科書の編纂
 1902年12月教科書疑獄事件が起こり,翌年小学校の国定教科書制度が確立し,小学算術書は飯島正之助一高教授を委員長に中村兎茂吉と川上瀧男が編纂しました。それは藤澤の数学教育観に基づいています。藤澤が「数ノ観念ハ数ゾエルヨリ起ル」という数え主義を採用して明治はじめの直観主義を排除しましたが,直観的取扱も若干入っています。この算術書を黒表紙教科書といっていますが,1905年より使用され,1910,1918,1925年の修正を経て1940年3月まで続きました。
 以上が,算数・数学教育の確立期です。
 なお,朝鮮總督府は1913年より逐年に『普通学校算術書』を編纂しました(巻三まで確認)。これは日本の黒表紙教科書1910年版を基にしていると思われます。日本語で書かれていますが,巻一では、数え主義を採用しながらも黒表紙にはない絵図を使い,直観主義を加味して工夫をしています。
  W.算数・数学教育の修正・改良期
(7) 中学校の数学教育改造運動と改正数学教授要目の発表中止(1924)
 1902年要目に基づく数学教育は生徒にも教師にも難しいと批判され,その要因は教授要目が不適当だと西川順之は考え黒田稔と謀り文部省に働きかけた結果,1911年に改正され「(各科目)相互ノ聯絡ヲ図リテ教授シ」の文言が入ったのです。
 他方,欧米では1901年のJ.ペリーの講演「数学の教授」に端を発する数学教育改造運動が広がりつつありました。その主張はユークリッド幾何からの離脱と実験実測の重視,分科主義より融合主義へ,融合の核としての函数の重視等です。この改造思想は1910年頃から日本に波及してきました。森外三郎はドイツ留学後『新主義数学』1915〜16年を訳しそれが改造のモデルとなりました。
 1918年に全国師範学校中学校高等女学校数学科教員協議会を開催し,函数とグラフ,幾何入門について協議しました。これが契機になり翌年日本中等教育数学会(現,日本数学教育学会)が生まれ,組織を以て改造を目指すことになりました。そして教授要目改正について数学会は文相に三度建議しましたが一度も実現しませんでした。その間,1924年発表予定の改正数学教授要目を文部省は編纂しましたが発表中止になりました。その年小倉金之助は『数学教育の根本問題』を出し,また翌年から1931年まで数学教育名著叢書全8巻を出版して改造精神とそのモデルを示したのです。
 1931年文部省は要目を改正し,分科的取扱と総合的取扱を容認,直観幾何,函数観念を注意事項に入れました。要目改正は20年ぶりのことでした。
(8) 算術教育改造運動と緑表紙教科書
 小学校の方も1910年頃から新教育運動の胎動が始まり,第一次世界大戦終了の1918年前後から活発になりました。欧米の数学教育改造運動と自由教育運動が背景にあります。主に私立小,附属小で研究されその主張は百花繚乱たるものでした。即ち,発生的算術,作問主義,構成主義,作業主義,実験実測,生活算術など。欧米の算術書も訳出されました。その間1924年には川井訓導事件が起こり,黒表紙教科書を使わずに授業することは難しくなりました。


 黒表紙教科書は少しずつ修正され,1920年には尋小5年にグラフが入ったりしましたが,依然,生活と遊離した教材でした。1924年に文部省に入った塩野直道は1929年頃に教科書改編を志し辞表を懐に1935年から使用した緑表紙教科書を編纂したのでした。数理思想の開発,日常生活の数理的訓練を趣旨としたもので画期的なものです。数学教育改造運動と自由教育運動がここに結実しました。


X.算数・数学教育の刷新期
(9) 数学教育再構成研究会
 1940年,緑表紙教科書で学び翌年卒業して中学校に進む生徒のために新しい教科書の編纂が要望されましたので,数学会第22回総会で数学教育再構成研究会を結成しました。会員の有志組織で,1941年に東部・中部・西部案が報告されました。同研究会の進行に呼応して文部省も要目改正に取り組み,1942年に要目を公布しました。
(10) 中学校・高等女学校の一種類の検定教科書
 1942年要目に基づいて編纂された教科書は従来の数学体系とは異なる教育体系で,内容を第一類第二類に分けたのは分科主義を払拭するためでした。函数を核とした融合数学の感があり,また,事物現象を作業や考察を通して数理を導くものでした。1943年には数学教科教授要目が制定され,それに基づく教科書は国定になりました。しかし戦時下で授業はまともにはできませんでした。
(11) 国民学校の理数科算数と教科書
 緑表紙教科書完成の翌年1941年には小学校が国民学校となり理数科算数になりました。合科的です。中等学校同様に皇国民錬成が目標です。
 教科書は『カズノホン』1・2年,『初等科算数』3〜6年,『高等科算数』一(二は出ず)で水色表紙教科書です。取扱は緑表紙教科書の継承ですが,図形や理科の教材が増え戦時色が濃くなりました。しかし戦時下で二部授業になったり,1944年からは学童集団疎開に行ったりで,国民学校もまた授業どころではありませんでした。
  Y.算数・数学教育の変革期
(12) 戦争直後の教科書
 1945年8月15日敗戦。GHQの民間情報教育局CIEの支配下になります。9月以降文部次官通牒等により軍国的思想払拭のため該当教材に墨を塗るなどして削除しました。雪合戦の問題と挿絵等。その墨塗り教科書を3月まで使いました。
 1946年4月からは戦時教材を除いた残りを小さな活字にし教科書の三分の二位に薄くした暫定教科書を使いました。それも分割発行でした。 
 1946年4月に最後の国定教科書の編纂が始まりました。義務教育6年の構想が途中で9年に変わり,また学習指導要領編纂と併行していました。翌年には『さんすう』1・2年,『算数』3〜6年,『中等数学』1〜3年が発行されました。中3(2)では「稲作の研究」「家計の研究」等が入り編纂途中から単元学習の走りが現れました。
 1947,48年には数学解析編T・U,幾何編1・2が出ます。CIE(オズボンか)から,高校は代数・幾何・三角をやれというのに対して野村武衛がアナリシスと幾何をやると突っ張ったからなのでした(日数教会誌第49巻第9号,1967)。
 1949年には小・中学校の検定教科書が出始めますが,また文部省著作教科書『小学生のさんすう』4年と『中学生の数学』1年も出ます。単元学習の見本の意味を持つものでしょうか。
 なお,占領下の教科書の奥付に英文で,
  APPROVED BY MINISTRY OF EDUCATION
( DATE Aug. 19, 1947)
のようにあるのは,CIEが検閲して認可したことを意味しています(内藤美城男氏による)。
(13) 単元学習
 学習指導要領試案は1947年に出,48年に算数・数学(中学),51年に小中高が改訂されます。48年版では1年ほど程度が下げられ同じ教科書を二度使います。51年版では生活経験重視の単元学習が本格化します。51年版数学の第Y章には単元学習による学習指導のことが書かれていますが,算数の方には載っていません。中間発表では載っていたのです。しかし単元「郵便屋さん」の文字等は残っています。


CIEの担当者ヤイディ女史とオズボン少佐の意見調整ができなかったのでしょうか。当時の文部事務官は,和田義信,島田茂,中島健三でしたが,中島健三は「司令部がsuggestionという名目で示す資料が実際には命令に近いものにならざるを得なかった(1973年)」と述懐しています。和田義信も同様のことを塩野直道に語っています(1951年頃)。単元学習には文部事務官の意にそわないものがあったでしょう。戦前の生活算術に一脈通ずるものがありますが,占領下ゆえ受け入れざるを得なかったのだと思われます。しかし先生方の中には新生日本の建設のため一生懸命に研究し実践された方も多かったのです。
 1950年から学力調査が次々に実施され戦前に比べて2年ほど低下したと指摘されました。1951年講和会議の前後から民間教育団体が発足し,学力低下の原因は単元学習という学習形態にあると批判するようになりました。1953年日数教は学習指導要領の改訂を文相に建議します。他方,塩野直道らが編纂した小中の算数・数学教科書(各1952・1954年から使用)は学習指導要領を大幅に乗り越えるものでしたので,系統学習への移行を早めたのでした。当時の学習指導要領は参考だったのです。しかし現実性との関連がある点が単元学習の長所だったのですが,それも含めて全面否定されました。


Z.算数・数学教育の改訂期
(14) 数学教育学の形成への胎動
 日本が占領下から解放され独立を達成する前後から約十余年は,CIE押しつけの教育ではなく日本の子どもに合う教育を創ろうという気概をもち教師たちは燃えていました。加えて1949年から小中高の数学教員を大学で養成するようになると,教科教育を学問に高めたいと志向するようになります。1952年から始まった日本数学会・日本数学教育会共催の数学教育に関する研究並びに討論会は1957年に数学教育学会の創設を提案し,1959年に成立します。また日本数学教育会も1970年には日本数学教育学会と改称しました。
(15) 系統学習およびその以後
 1958年には基礎学力の充実と科学技術教育の向上を方針に系統学習に戻しました。
   1968年からの改訂では欧米の動向を考慮し人的能力開発の要請もあり,数学教育の現代化に踏み切りました。しかし,1975年には落ちこぼれ問題で現代化に対するマスコミ批判が頂点に達し,単元学習と同様に全面否定されていきました。
 1977年の改訂は基礎基本の重視でしたが,アメリカのアジェンダ1980年の影響もあってか,教材にふくらみがないという反省と情報化などへの対応という趣旨で,1989年の改訂では活用能力や課題学習重視が強調されました。
 民間では,1980年前後から生きる力をつける算数・数学や総合学習およびコンピュータ利用が研究され実践されてきました。また近年では数学文化史の教材が開発されつつあります。
 数学教育思潮の流れは一筋ではないのです。

要 約
第一 数学教育思潮の反映としての教科書
 数学教育はファッションのようです。明治以来,直観主義,三千題流,理論算術,数え主義,生活算術,単元学習,現代化など,生活重視と論理重視の間をうねってきたのです。今はどうでしょう。
第二 日本の子どもに合う数学教育を創る
 学校教育に洋算を移植して以来,日本化しつつも揺れ動いてきたのは歴史と風土の異なる欧米の教育をモデルとする態度が抜け切れなかったからではないでしょうか。姿勢を正して日本の子どもを見つめ子どもに合うものを創りたいものです。
第三 人としての数学教育
 数学教育には「術」としての数学教育,「学」としての数学教育があり,従来この二つに傾いていましたが,今後は「人」としての数学教育を重視し調和をとっていきたいものです。

参 考 文 献
[1]松宮哲夫「中学校数学科教授要目の成立過程と固定した事情についての考察」大阪教育大学数学教室編数学教育研究第11号1981 153−192
[2]同「大正13年発表予定の中学校教授要目改正中止の事情についての考察」同 193−216
[3]同「数学教育史」 田村三郎編著『数学教育概論』梓出版社 1988 3-20 分担執筆
[4]内藤美城男著『戦後の学習指導要領改善と塩野直道』 自家版 1989 23−24
・その他多くの文献を参考にさせて頂きました。


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